渋谷という街は 自分とは相性が悪い?

渋谷という街はどうにも自分とは相性が悪いようだ。
電車を降りて改札口に向かう時からしてそうだ。
この人波をうまく乗りさばけない。
改札に近づくのもなかなか容易でない。
改札をぬけたあとは、なおさら厄介だ。
横からの突然の割り込みに慌てはしないものの、立ち止まるかどうかの瀬戸際だ。
前を行く年配のご婦人の急停止を避けるにはには、ギリギリの者間距離だった。
読めないのだ。
周りの人たちの行動や心理が。
ヒヤリとさせられることがあまりに多い。
歩幅やスピードや関心が私とは違うひとが多いのかと思う。
自分勝手に、読めるかどうかなどと、偉そうにい言うこと自体が奢りなのはわかっている。
むしろ、渋谷に大いに馴染んだ人たちが「あんたは来なくていいよ」と、よそ者の私が大怪我をする前に牽制をしてくれるような、親切心からかもしれない。
ただ、以前とは違い、最近の渋谷には違和感しかない自分であることには違いないのだけれど。
この違和感こそが全てなのか。

若者の街と言われて久しい渋谷だが、果たして今もそうだろうか?
ある意味、流行りに右往左往されながら、流れていった街なのか?
それとも自分の意志によって、一歩づつ前に進んだ街なのか?
私にはわからない。
私が若者と言われたのは遙かなる過去となった。そんな私が今更この街を語ることそのものに無理があるのも頷ける。
しかし、街は生きている。
誰がどう集うかで街は変わる。

渋谷には欠かせない東急が、東横線を町の東の地下深くに移転し、不便だと言われながらも、渋谷駅周辺は更に変わろうとしている。
東口の渋谷ヒカリエの前も、西口のバスターミナルの前も、新しい渋谷になろうとしている。
埼京線と共に生まれた南口はなくなる方向で、JRも姿を新しくすべく進むらしい。
街は人の生き方で変わっていくし、街の在り方で人は生活を変えて行く。
人口が減り、若者が減り、唯一老人だけが増える日本にとって、案外に渋谷はその未来の象徴になるかもしれない。

かつて若い頃に遊びの中心だった街が、年齢を重ねた後にまた、住みよい、訪ねたい街に生まれ変わるのだろうか?
日本の未来を占うというほどに大袈裟にはならないながらも、渋谷の未来には、すでに未来に大きく関われない年齢の私が期待する。
そんな未来の渋谷にを期待しながら、今夜は渋谷で自分に似合う数少ない飲み屋を、人波の先に探してみようか。