日本酒とワイン なぜ比べるのか

 世界の醸造酒

ワインと言えばビールと並んで世界で最もポッピュラーな醸造酒だろう。それに次ぐのはおそらく紹興酒ということになるに違いなく、日本酒の消費量はそのはるかに下と思っていいはずだ。

私はかなり昔から日本酒のファンだが、その頃から安ワインはずっと飲み続けてきた自負もある。

醸造酒は食中酒として飲まれることが中心で、それには原材料の素材を活かした味とアルコール度数が大きく関与していることを人はあまり気にしていない。

私がワインを飲もうとする時は特別な理由などなく、何となく「今日の気分はワインだな」と思うその時で、気負いも衒いも特別感もない。夏場であればついスペインのCAVAに目が行くところ。ただ、「今は日本酒じゃないな」という程度。申し訳ないことながら、ワインでなければ!と思ったことは一度たりとない。

言うなれば「ワインの美味しさを知らない」の一言で要は足りるのだと証明しているようなもの。安ワインしか知らず、高級ワインの何たるかも分かっていない。

 比べることと違いを知ること

以前の記事でも書いたことではあるが、日本酒を飲み慣れない人が感想を言う時の定番として「ワインみたいで美味しい」とよく言う。ところがこれは全く意味をなさない感想でしかないことを理解していない。
例えば「ご飯を食べてぶどうみたい」と言うだろうか?コーヒーを飲んで「紅茶みたいで美味しい」と言う人がいるだろうか?

本来、比べたところでなんの意味もないものを引き合いに出して優劣を語ったところで誰がそれを信じるというのだろう。

最近では日本酒の造り方を工夫して、わざわざワインのような味わいをもたせた酒も出てはいる。しかしそれは本来の姿とは違うわけで、似せただけに過ぎない。

これは日本酒とワインを比べた人の悪口ではない。日本酒が長い間隅に置かれ、日本酒が若い人から遠い存在になっていたせいで、知らない人が殆だったのだ。そんな環境からいつの間にかワインはオシャレで、それにに近いものが優れた日本酒だと、誰かがいつの間にか勝手に定着させた煽りでしかない。ぶどうで造った酒と米で造った酒を比べること自体が見当違でしかなく、成り立つ食文化が違うことを無視しているとしか考えられない。

木戸泉の酒林

更に重ねて言えば、醸造技術もまるでかけ離れていて、米の酒の日本酒を「目標とする味を定めて造る」ことが定着していることさえ知られていない。行き当たりばったりの酒造りなどしているわけがないのだ。
収穫する時点ですでに甘さを湛えたぶどうをアルコール発酵させてワインにすることと、米を蒸して麹を加えて糖化させた後でアルコール発酵させる日本酒造りとは明らかに違う。
そんな原材料も発酵のさせ方もまるで違うものを比較する意味など、どこにもある訳はなく、独自に評価されるべきであって、どちらが優れているかどうかではなく、どちらが好きかどうかでしかないことをもう一度徹底して訴えるべきではないのだろうか。
比べることと違いを知ることは明らかに異なる。

 本質の迷路

日本酒を飲んで「ワインみたいで美味しい」と表現する人は、潜在意識として「ワインのほうが優れている」と刷り込まれているだけ。

ジビエのごとく個性の塊のような肉料理を美味しく食べさせることが得意な国では、その下処理とソースに力を入れるのは当然のことで、それに繊細な酒を合わせたところで太刀打ちできないのはわかりきっている。日本酒なら山廃の3年物くらいであれば勝負にはなるかも知れない。

ホウボウの薄造りから始めて鯛の酒蒸しに進み、仕上げに松茸ご飯が用意されている時に、わざわざビンテージワインの栓を開けるとも思えない。ことほど左様に、料理と酒はその土地に根付くものであり、酒や料理の優劣を土地に馴染みのないものと比べるものではない。

酒に限らず、私たちは比べるべきでないものを比較させられ、比較しなければならないものを見過ごして生きるようにまんまと教育されてしまった。自分と他人を簡単に比べたり、政治なんて誰がやっても変わらないと決めつけたりと、物事の本質からはできるだけ遠ざけて生きるを術が、誰のお陰か社会の常識のようになっている。

迷路とはゴールにたどり着けないゲームであって、そこに私たちは迷い込んでいるようだ。

日本酒とワイン。
比べること自体が間違っている。
それぞれの生きる道がある。特に日本酒をワインに近づけて評価することはやめよう。ぶどうと米、原材料(本質)は丸っきり違うのだから。