変わることの不都合と変わらないことの不合理

 お馴染みのできないことの言い訳から

訪れた場所の素敵なところや地酒の会などでの良い話を紹介しようとしながら、時間ばかりが過ぎて2ヶ月ほども記事をサボってしまった。そこで、台風被害などを目にした別の面から近頃の風景で気づいたことに焦点を移してみたい。

私が仕事を始めた頃からよく言われたことの1つにこういう事がある。
「人は誰でも変わること(変えること)を嫌がる。」
当時の私の仕事場の居酒屋の厨房で動線とメニューの関係から、こう提案したことがある。
「このお皿はこっちへ置き場所を変えたほうが楽じゃないかな?」
案の定「今更、面倒なこと言わないでくれ」「慣れているからこれでいいよ」という答えが返ってきた。
「じゃあ、一週間変えてやってみて欲しい、それで今のままが良いとなったら元に戻そうよ」と言って、頼み込んで試してもらったことがある。
そして約束の一週間後、元に戻そうという意見は出なかった。
それまでの習慣や植え付けられた常識を、人は先ず疑わない。
そして変えようとしない。
これが私の学んだことだった。

大分の猫

 結婚しなければいけないのか

もう一つ例に上げてみよう。
超高齢化社会と少子化という問題は数々の機会にニュースや特番でもメデイアはたくさん取り上げてきた。
非婚や晩婚化と出生率、そこに低年収や女性の自立をを絡めて、原因は次々に探し出されていく。ところが解説する声が多いだけで、明確な解決策は示されず、一向に効果を出せないでいる。

頑なに守りたいカビの生えた常識や、現状認識を邪魔している昔ながらの価値観が、実は一番の問題だとは誰も言おうとしない。
例えば60代以上の人たちが常識だと思っている従来の価値観が50代、40代にはあまり意味を持たず、30代~20代には既に過去の遺物になっていてむしろ価値があるどころか邪魔なものになていることはたくさんある。
「結婚式」という常識と憧れはまだまだ存在しているようだが、家制度というのは迷惑になっているケースもありそうだ。
結婚して子供ができて、それこそが幸せの頂点で…という価値観がどれだけの人に共通して存在するかはわからない。

結婚などしなくても子供はできて、意志があれば母親が産むことを妨げないことだけは事実なのだから、過去に意味のあった制度で価値を縛ることは無理が伴うようになってきている。
もしも制度の中でしか子供が真当に生きられないのだとしたら、「命」の居場所は何処に置けば良いのだろう。
これは老人とても同じことにはなるのだが…

 守りたいものは何なのか

既に価値観が変わってきていることは世の中にたくさんある。しかし、その時代時代の為政者にとっては変わってもらっては困るのが常。
その変わったことを認めることで不都合が次々に生まれる。守りたいことが壊れていくのだ。
同時に変わらないことで次々に生まれてくる矛盾も世の中には当たり前に存在する。
この人と一緒に暮らしたいと考える。
そこで子供ができるとどうして育てるかは、戸籍制度から逃れられないことになる。すると離婚などのような「非常識」は世の中の制度としては迷惑なだけで、✕が付いた人たちは恥ずかしい人たちとなる。

70年前に定められた制度はそれまでの過去に常識とされたことに裏打ちされて法制化され引き継がれた。よく言われることを例にすれば、その方が民衆を管理するのに都合が良かったから。だが、今となっては矛盾を産むそんな戸籍制度の問題に、誰の目も向かないように世の中はうまく出来上がってしまった。

日本橋ふくしま館 地酒3種で500円

更に1つ例を加えるならば日本酒の変遷がある。
町内の集まりやお祭りの在り方が様変わりし、その場に日本酒の存在がなくても良くなり、日本酒の需要は転がり落ちてしまった。
現実的に身の回りになくても困らないものに、日本酒はなってしまった。
新しい価値を創出するしか日本酒の復活は難しくなっている。
だからそこで酒蔵は生き残るためにはチャレンジするしかなかった。
旧態然と昔ながらの常識に基づいて酒造りをしたところで、受け入れてくれる人がいなくなったのだから当然のことだ。
そのお陰もあって、現在生き残っている酒蔵はみんな「変わった」結果だ。

 変わることはいけないのか

高度経済成長時代を経過し40年ほど前からの価値観は、停滞期に入ってかなり邪魔になってきている。
「家」という制度の欲しがった価値に基づいた仕来りや「家制度」の必要のあるなしも含めて、今ではまるで宙に浮いている。
過去に常識と信じていたものが、制度としての意味を失った価値の上にあぐらをかいたままで今も常識でいようとしている。

世の中では「変わることの不都合」に規制を設け、「変わらないことの不合理」を目立たないように隅に追いやる。
昔の人たち、言い換えれば年寄りたちの価値観で作られた規制の中で、若者たちは既に変化した自分自身の価値観を昔に合わせなければならなくなっている。
これはどちらが正しいかではなく、未来は若者のためにあるという私の持論からすれば相当に矛盾している。
若い者、経験のない者には任せられないというのが正しいならば、未来は年寄りの閉鎖された価値観のためにあるという世界になってしまいそうだ。
一体、守りたいものは何なのだろうか。

 未来は誰が創っていくのか

日本の未来とは、国であったり民族であったりの未来だとは全く思えない今の日本ではないのか。政治家にも国民にも行きあたりばったりでビジョンがない。
私は若い者にこそ、経験のない者にこそ未来を任せるべきだと考えている。
まさにカビの生えた年寄りの経験など、参考にはなっても全く当てにならないことをここ何年も思い知らされているではないか。
100年に一度の異常気象や異常事態は毎年やってくるのだから。
未来は若い彼らのためにある。
ただ、若い彼らがそう思っていないことが、一番の厄介かもしれない。

「若すぎるからと許されないなら、髪の毛が長いと許されないなら…」と、戦争を知らない若者たちが50年前に唄った。
当時、作詞した20代の北山修さんを含む「戦争を知らない子供たち」は団塊の世代と呼ばれ70歳を超えた。

10年遅れの私も自分が老人と呼ばれる年齢になって、グラスの向こう側に改めて未来は誰ものかを思うのだった。