2018酒蔵巡り その2 大原から御宿

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 大原から御宿へ

御宿は山に囲まれた立地で、昔は海に突き出した岩場の海岸線を通って町を出るか、北の山越えで大多喜に出るかのいずれかだったそう。今でこそトンネルが山を突き抜け、大原からも勝浦へも楽に行けるようになってはいるが、山越えの旧道はどこも狭く険しい。

大原からトンネルを抜けて御宿の町へ入ると長い直線の下りになる。
いわゆるバブル全盛期に、陸サーファーも含めてサーファーで賑わった町は何棟かの高層リゾートマンションを残して、その面影を辛うじて保っているようだ。
今では「海水浴」という言葉さえ死語になっていると聞いた。

御宿駅へ向かう角よりも手前の交差点を右へ曲がる。魚屋の前を通り、まさかと思うほど狭い道をまた右へ曲がると岩瀬酒造に到着する。

 御宿・岩瀬酒造「岩の井」の蔵元

標識もないし、こんな道は知らないと入ってこられない。

敷地への入口に唯一と言える看板があるだけで「岩の井=岩瀬酒造」と知っている人だけがわかる。

開いた場所に勝手に車を留めて歩き出すとすぐに古い洋風の建物が目に入る。ここがまた元病院だったそうで、現在では御宿の海女の写真等の展示館になっている。
岩瀬酒造ホームページより:
現当主、岩瀬能和は、11代目になります。先代の禎之氏(故人)は、戦前から海女を撮り続け、毎日新聞社主催の展覧会で、「総理大臣賞」を受賞した写真家でもありました。(代表作:写真集「海女の群像」)
のどかなもので、ここも勝手に観せてもらえるのだ。そしてその写真たるや強い生命力と笑顔が溢れ、活気に満ちた町だったことが伺い知れる。

※現在では御宿に海女は一人もいないそうだ。

蔵人の誰もが気軽に「こんにちわ」と声をかけてくれるが、居眠りをしていた猫には我々が迷惑だったようだ。のしのしと庭の奥へ行ってしまった。
酒蔵の事務室手前に商品を展示していて、そこで目当てのお酒を買い求めることができる。

 御宿・岩和田

現在の御宿駅から「月の砂漠」の名で親しまれる長く白い砂浜の続く海岸までの町並みはそれほど古くはなく、昔の漁師町としての中心は、海岸をそのまま東へ向かったところにある岩和田という辺りだったと聞く。

翌日は朝から岩和田に向かった。
小さな漁港から北への緩やかな上りになったそこは、路地が入り組み迷ってしまいそうな町に旧家屋が並んでいる。海抜や地形から言えばこの辺りが最も津波の被害を受けにくかったのだろう。海岸から御宿駅への地域が一番低い場所にあるそうだから、自然と生きる昔の人はそんなところには住まなかった。

岩瀬酒造のホームページに1609年のサン・フランシスコ号の難破の話があるので、詳しくはそちらを見てもらった方がいいだろうが、この岩和田から急坂を登った海を見渡せる高台には「メキシコ記念塔(日西墨三国交通発祥記念之碑)」が建っている。

御宿の歴史や生活を知るには貴重なことと思えるので、時間と車があるなら岩の井を訪ねた後にここまで足を伸ばすのはおすすめだ。

 岩船

ここまで来たからと、もう少し海岸線を北へ進み「岩船」というところまで進んでみることにした。

坂を上り下りしながら辿り着くと「岩船」の名の通りと勝手に想像してしまうような、海に小さくせり出した岩場の上にお地蔵様が祀られている岩船地蔵尊があって、まるで船の舳先だ。
その横に漁港があるのだが、外海と港の中との様子の違いが明らかなのがよく分かる。こんな景色は見たことがなかった。右側は天候のせいもあってか本来の太平洋の姿なのか波は大きく打ち寄せて弾けているが、左に見えるの港の中は至って静かなまま。

海と一緒に暮らすこととはこういうことかと思い知らせらされた気がした。


改めて海岸から離れて国道へ出れば、大原に近いことに気づく。

この後は勝浦の「腰古井」まで行こうと言うことになっていたのだが、急に方向転換となった話は次に…