待つ この崇高で至福の粋

待つ
旨いと話題の店があって行列を作る。
心躍らせて自分もその最後尾に連なる。
私の中にそんな選択はあり得ない。
目当てのものを食べるのに並んで待つことなど、私にはあり得ないのだ。

待つ
「待つ」ことの崇高な意味を噛み締めることが、どれほど人の情緒に貢献してきただろう。
今や、待つこと、待たせることは、ある意味、最高のステイタスでない限り、最大の罪悪でしかないように言われる。
だからこそ、ここで間違いを犯すことになる。
現在の多くの人たちは「待つ」ことを大いに嫌う。
時間の無駄と言いたいのだろう。
そのくせ、人気店や話題の店に並ぶことは別らしい。
「◯◯のラーメンを食べてきたよ、2時間並んだけどね」と。
これが自慢話になったりする。

待つ
居酒屋で注文をした料理が出て来る10分を待てない。
東京では房総までのぼってくるカツオを待てず、南の海まで獲りに行き、2月から初カツオを食べようとする。サンマも然りで、7月に新サンマが店頭に並ぶ。
私には無粋に思えてならない。
どうやら「待つ」ということの意味を最近は履き違えているようでならない。

待つ
私にとっての「待つ」は「機を待つ」こと。
料理を美味しく作るには、下ごしらえから加熱調理の火加減まで、手間と暇をかけることが肝心。
料理屋では予約でもらった料理を、食べる機(タイミング)に合わせて出せるように用意をする。
だから待たせることなく一番美味しい時に配膳できる。
長い間、居酒屋で仕事をしてきたが、このことが残念でならない。

「待つことの粋」
仕事は早いに越したことはないのだろう。
だが、美味しいものには機がある。
4月になれば、そろそろだなと待つ。
5月が近づけば、目当ての店に予約を入れる。
「カツオは入りそうかな?」ときく。
その待つこと数週間。
崇高で至福の時間を過ごす。

待つ

待つ