グループでの飲み方 個性の変遷

前回のグループでの飲み方については、回りくどくなりました。
何が変わったかをみると、何故変わったかが見えてくる気がします。
ここでは、前回のことを少しまとめてみたいと思います。

この記事の目次

 変わったものは?

グループでの集まりで飲食のオーダーの仕方が変わるということは、まさに集団としての在り方が変わることではなく、個人の在り方が変わるということに他なりません。
個々の飲みたいもの、食べたいものに先に興味が行く、そしてそれを最初に訴えることが、現在の在り方になったということでしょう。
同時に、仲間たちが何を求めているかは、二の次になった。いや、むしろそれは小さな共有事項として、理解できればいいことなのかも知れません。
こう捉えるのが正解ではないでしょうか?

かつては、その順番が逆だったように思います。
決して個人の好みを訴えることが、否定されていたわけではありませんし、また、個人主義と全体主義を比較しようとしているわけでもなく、しかも過去がそうだったと決めつけるつもりもありません。
「自分を大切にする」ことが全体として受け入れられ、これが世の中に市民権を得たという方が正解でしょう。
だから、どんな振る舞いであれ、仲間たちは必ずそれを受け入れ、どこかに誰もが「気遣い」を表そうとします。
「個」の重要性を世の中が受け止め始めたのは、素晴らしいことだと理解します。全体の中に「個」が埋没していた時代は確かにありましたし、それを今以上に感じていた私と同じ世代の人も多かったはずです。
「個の解放」というような言葉が叫ばれた時代もあったのですから。
数十年前から時代は変化し、それをある意味克服してきたと考えた方が良いのだと思います。
変わったのは、きっとこの部分が大きいのではないでしょうか?

 忘れてしまったものは?

「個」の延長として、身内には必要以上に気を使う世の中になってきたように思えてなりません。
しかし、これも大きな勘違いをしながらの上だと、私は思っていますが…
答えを先に言いましょう。
「個」そして、友人も含め「身内」でない人たちには、関係ないという姿勢を持っているようにしか見えなくなりました。これがひとつの答えです。

でも、その答えの先にある、もっと大事なものが見えてきます。
孤立しないために、身内(仲間たち)には、必要以上に気を遣います。
しかし、その範疇にない人は、「無関係」な人なのです。
気など使う必要もないし、その人がどうなろうが、興味の対象外です。
前の記事から言えば、30年~40年前は、周りの全ての人が関係のある人だったのです。
しかし、20年前ころから、「身内」意外は、関係のない人になっていったのです。
忘れてしまったのは、自分の周りで「名前も顔もわからない人」なのです。
これこそが、20年前から変わったことだと、私は思います。
これが全てのように思います。
繰り返しますが、これは今の人たちを否定してのことではありません。

 携帯電話の普及

携帯電話が登場し、普及し始めたのが20年前です。
私には、これと関係しているように思えてなりません。
まるで夢と希望は何処へやらです。
今ではスマホが主流となり、SNSというコミュニケーション手段が普通になりました。これが「悪」というわけではなく、これこそが、当時の「個」の求めるものと合致したのだと思います。
だからこそ、この延長での利用シーンが今の、若者を中心とした価値観を創りだしたと言うべきではないでしょう。

携帯電話の持つ本質として、「個の権利」と裏腹に、「孤立」をも生み出したことで、仲間はずれにされたくない、という意識が強くなったことにも繋がります。
従って、携帯の「電話帳」はわれわれ年寄りには理解できないほどに重要なものとして、若者たちにはひとつの宝物なのです。
そして、時にはその大事な「身内」から捨てられないための気遣いが、他の人を犠牲にしても、何よりも一番大切なものになっていくのかもしれません。
飛行機が飛び、時間も距離も短縮され、世界が広がった20年前から比べて今、若い人たちの世界はどんどん狭くなっているのではないかと、年寄りにありがちな心配をしているこの頃なのです。