思い込みのシナリオ アトリエに学ぶ

 音楽が与えてくれるもの

もう既に40年ほど前のPOPグループで「アトリエ」という男性2人女性1人の短期間に売れた人たちがいた。女性ボーカルの、透き通る少し切ない声が、耳の奥で鳴り響いて消えないような特徴的な魅力があった。

暫く振りに、聴いている。

その当時はただ聴いていただけで、あまり詳しく知ろうとはしなかった。

歌詞やタイトルにも「鎌倉」はよく登場し、鎌倉を舞台にして作り上げた楽曲が多かったのは、彼らのベースがそこにあったのだろう。

メロディの細やかさと、女性の心の内や肩が小刻みに震えるように奏でる声と歌詞から、私は疑いもなくその女性ボーカルの彼女の作詞の歌ばかりだろうと、当たり前のように決め込んでいた。

ところが、面白いものだ。
今改めて調べてみると、当時ヒットしたアトリエの、女性の切なさを謳った歌は、メンバーの男性の作詞だった。

ボーカルの女性はむしろ作曲を担当してようだが、歌詞にはあまり関わっていないことに気づく。

人の思い込みとは身勝手なもので、自分の都合よく物語を思い描く。
そこ至るシナリオをまことしやかに作ってしまうのだ。

どんな時代であっても、音楽はその時代の先頭を走っていて、うっかりすると自分だけ置いてけぼり。音楽に触発されるのか引きずられるのかはともかく、若者はそこに浸かりこむこともある。

時代を象徴する音が流行り、そこに纏わりつくように歌詞が主張する。
日常の微かな変化に怯えて、細やかな感情の揺れを音楽にする。
人の感情を勇気を持って表現する音楽の姿も、改めて見えてくる。
グループ・アトリエの楽曲を聴きながら思う。
歌う人たちの心の内側が滲み出るような音楽シーンはあるのだろうか?
決して悪口ではない。
現実と幻が交錯する世間で、私たちが新しい価値観を見出だせる文化は、周りに満ちているのだろうか?
様々な価値観に囲われて、私たちに本質は見えているだろうか?

 疑うことを奪われる

まるで違う話のようだが、ここにこそ本質がある。
普段から特別に意識することがないように植え付けられることには、人は概して無頓着になる。子供の頃から当たり前のように存在するものには、初めから疑いの目を向けない。

信じているものこそ疑え!という教育は、学校にはない。

東日本大震災から年月が過ぎ、忘れられたかのような現実がある。
私たちはあの時の震災で、信じ込まされていた不可思議な現実を疑うことを学んだはずだった。しかし今、再び疑うことを私たちは忘れてしまった、ように見える。
次々に原発を再稼働させることで得られるという今の便利は、私たちが引き換えにするものと比べて、価値のあるものだろうか?

原発を止めることで失う生活レベルと未来の可能性は、人が生きるという本質の体現と比べて、後戻りしか与えないだろうか?

人類の破滅に繋がりかねない問題を、万にひとつどころか、億・兆にひとつも間違ってはならないことを人間に約束させること自体が間違いではないか?

アトリエというグループが描いた画譜。
人の感情のもつれや常識と非常識の錯綜。
音楽の向こうに見える絵画。
当たり前と持っていた価値観のあやふやさ。
私の視界はやや混乱しているのだろう。
スコッチのロックを舐めながら、過去と今と未来を、行き来している。