新宿の残念な大型居酒屋

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 元同業者のお節介

私は元同業者ということもあって、基本的には飲食店の悪口は言わないようにしている。むしろ良いところを探そうと試みる。
料理の提供が遅くても、味がイマイチでも店舗でクレームを言うこともない。
特に常連さんがほとんどの小さな個人店であれば、店主の個性を十分に発揮することが本来大切なことだけに、考え方ややり方はすべて受け入れる。
自分が居心地悪く感じるなら行かなければ良いだけの話だ。地元に愛される個人店はそうでなければいけない。
しかし、大型店やチェーンの居酒屋などのことでは、残念だなあと思うことがあると自分を振り返りながら、偶にお節介を焼いてしまう。

 全260席の超大型店

その日は仕事の簡単な打ち合わせを兼ねて、新宿の或る改札口から近い超大型の居酒屋に入ることにした。私にとっては初めての店で特に理由はなく駅近くで席がありそうで、地酒もある店を選んだまでだ。

全260席というだけに18時なら3人分の席はあるだろうと考えたが、その点は正解だった。玄関で靴を脱ぎ、スタッフが扉を開けて待ってくれている場所に入れて鍵を受け取る。周りを見渡すとたくさんの靴入れの扉にベタベタと紙を張っていて、それはみんな予約のお客様に用意されたものだった。なかなか盛況のようだ。

店全体が黒で統一され、案内された席も落ち着いた雰囲気で申し分なかった。
ひと通り飲み物を注文して少し話を進めていると、飲み物より先にお通しが運ばれてきた。
料理の前後が逆向きに提供されたが、見た目は気の利いた感じで、小さなお盆に並んだ3つの小鉢には、一味を振りかけたような奴、蒸し鶏のゴマソース、そして練り物団子の温かい煮物との三種だった。

そこでおすすめメニューを見ようと私が手を伸ばした時だった。私の鼻先に大きな違和感が立ち上ってきた。
それは私の長年の経験から絶対に見逃せないもので、温かいからこそ余計にはっきりと目立つ匂いだ。
連れの二人にも手を付けないように話して、しばらく考えてみた。

やがて飲み物が届いた時、そのスタッフに私の分の小鉢をこれは食べないから返すよと言って渡し、「これは大丈夫?」と伝えてくれるようにいい添えた。
しばらくして何の反応もないため、他の2人の小鉢も「これも返すから調理場の人に渡してね、大丈夫ですかと。」
スタッフの女性は不思議そうに受け取ったが、多分理解してないだろう。
本当は店長を呼んでもらって伝えるのが正しいに決まっている。だが敢えてそうしなかったことが、店と店長を試した結果になってしまった。

 店は店長の実力とセンスが大きく左右する

その小鉢の煮物は間違いなく傷んでいた。
腐敗した煮物であることは食べてみなくてもわかる。
ところが案外多くの人はこの程度なら、うん?と思いながら気にしないで食べてしまう。少量だからお腹を壊すこともないかもしれない。
私は同じものを他のお客様に出さないようにして欲しいだけだった。

私たちの席からは白衣に帽子姿の調理場さんも見える。
たぶん、その小鉢は調理場担当者が盛り付けているのではなく、温めた物をホールのアルバイトが盛付てその都度出していると思われる。
本当ならば火入れをした時に調理人なら必ずわかりそうなものだから、調理人が横着して確認しなかった冷蔵庫の残り物を、ホールの子たちがレンジででも温めながら盛り付けている可能性もある。
デシャップの様子も、お盆に並べた蒸し鶏に胡麻のソースをスタッフが掛けていることまでわかる。
先ほど私たちの返した小鉢は、ただそのまま下げ物のお皿と一緒に並んだだけだったのだろう。

普通はお客様に自分で判断できない事を言われたら、スタッフは店長に報告するものだ。もちろん私は店長に詫びに来て欲しかったわけではなく、提供した商品の異常に気づいてほしかっただけ。残念だが店長へは何の報告もされなかったようだ。
いずれ事故が起こることのないようにと願うしかない。

店の造りはけっこうお金もかけていて、廊下や席の広さもゆったりとしている。その辺の安居酒屋とは全く違う。
カウンター席は居酒屋とは思えない佇まいで、立派なソファーのような椅子を用意して特別感さえある。
料理は味もよく、内容から想像する値付けよりも安く、店の雰囲気も良くて誰もが割安感を持つ店に違いない。地酒が2,000円で2時間飲み放題にできるというのも、地酒好きは得した思いになるかもしれない。
こちらの店はたぶん人気店なのだと思う。

私が勝手に不安に思う。
お手洗いのシンクには焼き物の大皿を利用した風で、高級感もある。それにもかかわらず、そのシンクの横にはむき出しのペーパータオルを何のケースに入れるでもなくドンと置いてあるだけで、見た目も使い勝手もどうかと思ってしまう。客席をハエが飛び回っていたのもいかがなものか。

 教えて共有すること

スタッフは空いたグラスを見て「お飲み物はどうしますか」とは聞いてくれるので、そういう教育はされているのだろう。その割に、店長への「報告」は教育の一環で重視してなかったと思われる。

260席ともなれば店長一人の目で客席全部の様子を知ることなどできないし、ましてやよほどの経験と実力がないとお客様の表情までうかがい知ることは不可能だろう。スタッフからの細かい報告こそが頼りのはずだ。

特に最近のように間仕切りが多く、全体を見渡せない造りになると尚更で、たとえ100席ほどだったとしてもお客様全員を店長一人で把握することなど叶わないのが当たり前。
だからこそ気づいたことは何でも細かく報告してくれるよう、どこに注意するかを含めて私はスタッフに繰り返し話していたものだった。

会社やオーナーがどんな決め事をしても店の運営は店長次第だと私は考えている。オーナーと店長が同じであればいくらか簡単だが、オーナーの考えは隅々まで伝わりにくいい。
店のコンセプトを本当に理解している店長であれば多くの苦労は要らないし、同じ方向に進んでいけるだけに成績も伸びるだろう。
いつの時も教えてそれを共有することは簡単ではない。

この店はビルの地下にあって、通路の向かい側の店も同じ経営で屋号が違うだけらしい。最初は別の店なのかと思っていたが、メニューもかぶっているようで、店内に両方のメニューがあるように思えて判断できなかった。

私はお会計が終わるまで先に店を出て、前の廊下で今いた店と向かい側の店の間で看板を眺めていた。
なるほど全260席か…

すると今いた店の玄関から料理の皿を手にしたスタッフが出てきた。
そして前の店へ入って行く。足元は履物も履かず。
すぐにもう一人が出てきた。同じくトレンチも使わず料理の皿を持ち、履物も履かずにペタペタと歩いて目の前の店へ消えて行った。

そういうことだったのか。
せっかく見事な造りの店なのになあ。
新宿駅の改札は人でごった返していた。