日本酒造りの改革から見る日本の憂鬱

この記事の目次

 日本酒の憂鬱

日本酒業界はかつて未来を失った。

かなり前、日本酒の消費量が年々激減していく中で、日本酒業界は一度は未来を失った、はずだ。そんな環境の中で、いくつかの蔵元の跡を継いだ若い人たちが危機から立ち直るために随分と改革をしてきた。その多くは自身が醸造学を大学で学んだ跡取りだ。自分の蔵に新ブランドを立ち上げてイメージの一新を図る。それにはこれまでと同じ酒を詰めたのでは意味がない。ではどんな酒が良いのかと模索した。

こうして、杜氏制度から見直してきたところもある。季節雇用の杜氏を正社員にしたところもあれば、自らが杜氏となり制度そのものを廃止した。要は技術ではなくシステムの見直し、いわゆる構造改革から手を付ける必要があった。その構造改革ができない限り、技術の使い方を変えることはできず、技術を活かした新しい商品の開発などできなかった。

彼らはたくさんの試行錯誤を繰り返した。私のような、日本酒のオールドファンには受け入れがたいタイプのお酒もたくさん見てきたが、コレでもか!コレでもか!とチャレンジし続ける蔵元が多くある。

その若い跡取りさんたちも今では40歳代になった人が中心かもしれない。そして彼らの酒造りを見て倣いながら、後を追い更に上回ろうとしている20代~30代の蔵元も増えてきていると思う。

まだまだ日本酒の出荷量が伸びてきたというニュースは聞かないが、海外に向けた施策も積極的に蔵元たちが関わり、そのための日本酒造りも進め確実に実績を上げている。

この先の若者たちが手にし、飲んでみたいと思える酒を造ることは「年寄りにはできない」と決めてかかるぐらいでちょうど良い。私のような年寄りが飲みたいと思う酒も、少し残しておいてくれればそれで良い。
変わらなければ日本酒業界は更に縮小し廃れていくのは目に見えている。その日本酒業界、日本酒の未来を担うべき若者たちが支えて行こうとしている流れを止めてはいけない。

 酒屋の憂鬱

この酒蔵の努力を支えるべき「酒屋」が減りすぎた。
それに輪をかけて酒を売る酒屋に日本酒に力を入れようとする店主がまだまだ少ない。問屋の言いなりに地酒を置いてみても、日本酒の知識がない。
だから売れない。売れないから管理もできずに不良在庫になるせいで、なおさら売れない。
街場の酒屋さんで如何にも地酒が看板だなとわかるところ以外は、残念ながら本当に日本酒の知識がない。
そんな酒屋で日本酒を買った消費者は後悔することになる。

蔵人は自分たちで造るだけに日本酒の商品知識も当然に持ち得るが、酒屋は自分から努力する外、日本酒の知識を得ることはない。問屋も含めここがこれからの大きな課題になることは間違いない。

きっと業界の人たちは気づいているからこそ、各試飲会には酒販店を積極的に参加費を無料などにして招いているのだろうが、興味のない人はやはり出向きはしない。
生き残る手段を探せないでいる酒屋そのものが方向性を失っている。かつては街づくりの中心にいたはずの酒屋が今はその面影もない。商品知識などなくても売れた時代が長すぎたせいもあるのだろう。
日本酒の需要を伸ばすには流通の改革が不可欠だ。

日本酒の価値、日本酒の意味を問い直しながら生き残ろうとしている日本酒業界をみると様々なことと比べてしまう。

 守られた組織の憂鬱

旧態然とした組織にしがみつき、そこから抜け出そうとしないばかりか、何とか守り抜こうとしているところが目立つニュースばかりが報道された。

大学の価値と意味
少子化になることが分かっていながら、これまで大学は随分と増えてきた。今では各定員を足すと高校を卒業する人口を上回るというから、誰でも大学生という時代になっている。
そんな現実を見るにつけ、大学の価値と意味はどう理解され、またどう意義付けようとしているのかがいよいよわからなくなった。

そんな時に起こった日大の不始末。


大相撲の価値と意味
過去の価値観に基づいた大相撲の存在意義はかなり弱々しくなていることを誰も指摘しなかったせいか、ここでも暴力問題が世間を揺るがした。

神事だといい、国技だといい、格闘技だといい、スポーツだといい、興行だという。素人の私がいうのはおこがましいが、生き残るには「興行」になるしかないと考える。自分の居場所を結局のところ見定められず、ふらふらと過去の曖昧な価値にしがみつく。

大学も大相撲もどちらも昔のまま生き残ろうとしている。すでに存在そのものに「?」を突きつけれれている現実を理解できず、ある意味自分たちの利権を守ることに必死になっているように見えて仕方ない。
どちらも各方面からの補助を当り前に受け、守られてきたことが仇になっているのかも知れない。
誰からも守られず、変わらなければ生き残れないと自覚して努力している日本酒業界とは、なんと違うことかという現実が明らかになった。

 もっと厄介な憂鬱

そんなことを考えながら、もっと違和感のあることが気になって仕方ない。

アメフト部だけのせいにしているのかどうか知れないところではあるが、日大の現役の学生たちがマスコミのインタビューなどで「残念」だとかのコメントを残す程度で終わっている。一度たりと「許せない」という言葉は聞いていない。
大相撲のように明らかな閉鎖社会でないにもかかわらず、大学はコレほどに閉ざされてしまったのかと思うと、がっかりを通り過ぎて未来が恐い。昔話過ぎるとはいえ、4~50年前の正義や未来に敏感だった学生はこんな時、大学本部を1000人単位で取り囲んできた。

現在自分が置かれている世界を疑うことさえ奪われてしまい、自分が払った(その意識すらないだろう)授業料がどう使われているかに、学生は一切関心のない如くに見えるのは私の気のせいではあるまい。

できるだけ明るみに出ないように作られてしまった現在の格差社会は、今の学生たちにとってどう見えているのだろう。自分がその中で下に置かれる構成員になる可能性をただ不安に感じるだけなのだろうか。
これからの日本を担うべき使命をもった若者の反応がこの有様なのだ。「許せない」と思うことさえなく、万が一「許せない」と思ったとしても、どう抗議すれば良いのかの術さえ奪われた若者がこれからの日本の中心となるのだろうか。

 日本の憂鬱

すでに日本大学や大相撲どころか日本の憂鬱が蔓延してきている。日本の触れられたくない歴史は教えず、日本の本当の現実さえ気づかせず、小さな檻の中で都合よく飼い殺しにされかねない危機を思う。まさに「日大の憂鬱」「国技の憂鬱」こそが「日本の憂鬱」だと考えれば全てに納得できそうだ。

日本の憂鬱。
そこには日本の未来を明るく照らすはずの要素を剥奪された若者が、現実逃避のゲームの中に住むことで、ほくそ笑むことばかりを価値として押し付けられているのではないかと、勝手に心配になる。

年寄りが昔の価値観の中で自分たちに都合よく保とうとしている世の中に未来はない。

「未来のことは未来のある若者に任せろ」と言った人がいる。
このところの世の流れを見ていると、日本の将来に対して私の危機感はかなりピークに達しているのではあるが、これを「憂鬱」程度で済ませられるなら、まだ辛うじて間に合うかも知れない。

日本酒業界は憂鬱を払拭しようと前を向いて進み始めている。ところがどうやら日大は憂鬱を払拭するどころか未だに何とか包み隠そうとしている。こんな教育現場にいる若者たちが、いくら自分たちの未来だとしても、日本の憂鬱に真正面から立ち向かうとは信じにくい。しかし、それこそが若者の未来なのだ。

組織が大きくなればなるほど、よく言われてきた訳知り顔の「老害」がはびこっている。過去の産業かもしれない日本酒業界は世代交代を機に改革が進められている。
「こうすれば良い」と教えられた昔のこと、過去のことは参考にこそなれ、決して当てにはならないことを、何度も台風や地震や集中豪雨が教えてくれている。
若者は失敗を経験すれば良いし、道を間違えても良い。
彼らにはやり直す時間がある。だからこそ未来のことはやはり若者に任せた方が良い。
若者は経験もなく知見も足りないから、経験と知見が豊富にある年配者が決めることの方が正しいのだ、と言いたい人は多いかも知れない。
ならば試しにきいてみるが良い。例を挙げるなら、かつて未来の救世主がごとくに建設され、現在の政府が躍起になって再稼働しようとしている原子力発電所を、10年後20年後に彼ら若者が欲しいかきいてみれば良い。
その答えに従って彼らは自分たちの未来の生活と必要なエネルギーの在り方を自分たちの責任で決めていくだろう。

大切なことはどうやらこの辺にありそうだ。

今宵は昔ながらの日本酒を飲みながら、私自身が老害にならぬよう、大人しくしているとしよう。