高田馬場に居酒屋を構えること

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 学生街の表と裏

東京都新宿区の一つの繁華街に「高田馬場」がある。東京に縁のない古い人ならば、「高田馬場の決闘」「堀部安兵衛の助太刀」と忠臣蔵に纏わる話を思い浮かべるかも知れない。

そこから徒歩で10分余り、山手線の内側へ入ったところにある早稲田大学を中心にして他の大学や多くの専門学校も周辺に連なり、今では有名な学生街として認識されている。従ってそんな事情を知っている人はだれも皆、高田馬場場には安居酒屋が並び、どこに行っても学生で溢れていると考えていることだろう。

ところがそれは20年以上前の話。当然その昔から高田馬場の居酒屋の殆どが学生を対象にした店造りで営業し、いかにたくさんの学生を捌くかをテーマにしているような感があった。団体の学生客を狙って様々な工夫をしながら如何に多く入れるか競い合っていた。

実は高田馬場は交通の便が良い。
大手町や日本橋まで地下鉄で15分ほどあれば行ける。そんなことからも、大企業は少ないながら多くの企業があって、一般の社会人たちも昔から沢山いたのだ。
しかし彼らは学生たちの賑やかさや煩わしさに、そんな店を嫌って肩身の狭い思いで自分たちに心地よい店を苦労して探しては、静かにおとなしく時間を過ごしていた。

  20歳と20世紀の境目

正直40年ほど前は飲酒を許される年齢が20歳ということを世間の多くが重視していなかった。18歳からOKと思っている人までいた。大きな問題でも起こさない限り、お巡りさんもそれほどに目くじらを立てることもなかったように思う。
従って、高校を卒業し大学生や専門学生になった18歳の若者たちが、「新歓コンパ」という名目で先輩たちから迎えられることは普通に、しかも公に行われていた。そこには飲食店もかなり緩く対応して、その共犯者となっていたことも珍しくなかった。

だが当然のこととは言え、1990年頃より、誰の目にも厳しく取り締まられることになって、未成年者に対してお酒を飲む方も飲ませる方も、重い罰を例外なく受けることになった。
現在では、飲食店も「10代には見えませんでした」「本人が20歳だと言ったので」という言い訳はどんな場合も成り立たない。
身分証明書を確認するのは義務、確認しないほうが悪い、怪しく思った時に確認できなければアルコールの提供を断るのが常識だとされている。

更にそれと並行するように若者の飲酒離れが言われるようになり、21世紀に入る前から彼らの飲み方もすっかり別物に変わってきた。
「イッキ!イッキ!」と言っていたのは20世紀で廃れた風景になってしまった。

 客層を切り替える

私が高田馬場にあった店の担当になったのはまさに1980年代の後半。
当時の店長は高田馬場という町と居酒屋の在り方にどう対処するかを懸命に考えていた。
1年の内で最も売上のピークを記録する早稲田大学の3月の卒業式を終えて間がなかった頃のことだった。

全90席の店はJR高田馬場駅より東へ少し離れていて、早稲田通りから細い路地を奥へ入った、人通りのない分かりにくい場所にあった。周りと比べても家賃はやや安いものの、決して良いとは言えない立地だ。
団体でやかましく騒ぐ学生たちは常に近所からのクレーム対象だったし、彼らにとっては安く上げるも重要で、騒げる店に行きたい心理もわからいではない。

その頃は居酒屋ブームと言われて、高田馬場にもチェーン居酒屋がいくらでも立ち並び、若者たちが店を選ぶには困らなかった時代。場所がら中途半端なままではいずれ行き詰まってしまうことを店長は分かっていた。
広い座敷を必ず来るとも知れない学生の団体客を待って空けておくのも限度がある。かといって20人超の団体は珍しくなく、時間も関係なくやってくる。

そこで店長は方針を決めた。
・学生たちを拒みはしないが、彼らに合わせるのはやめる。
・絶対に騒がせない、席を空けて待つこともしない。
・大人が落ち着いて飲める店にする。

 勇気と信念

元々が裏通りにある店だから、穴場を求めて社会人のお客様も来てくれてはいた。ところが彼らは学生の団体が動き出すのと入れ替わるように帰り始める。煩い中に残って我慢しているのはゴメンなのだ。
これまでも、ゆっくりと飲みたい彼らは「座敷はダメなの?」と広い座敷を見て聞くことが多かったが、後で来るだろう学生の団体のために断っていた。

しかし店長は後で来る学生を待つのをやめた。
早くから座敷に社会人の方たちを案内するようにした。テーブルでも10人ほどなら4組は対応できるために、後からやってきた学生は空いている席に合わせて、騒がせないのを条件に入ってもらうように変えた。
「イッキ!イッキ!」はもちろん禁止。大声も禁止。
当時の学生の団体にとっては極めて不都合な店になった。

勇気がなければ始められない。
当初は従業員も戸惑っていた。店長も内心はビクビクで対応したらしい。学生街で学生に媚びない店。

信念がなければ進められない。
席は空いていても入口で、「騒がせない」と言うと、不満を撒きながら「他に行こう!もう来ないから!」と去っていく団体もいる。
40人の予約の電話が入る。
「うちは騒がせないけど良いですか?」と聞く。
「じゃあ、やめます」と返事が来る。
約束を守れず大騒ぎするお客様がいる。
2度注意しても収まらない。
「申し訳ない、今お会計するから帰ってください」と言う。
そんな勇気と信念、簡単に持てるものではない。

 自分の店は自分がつくる

他のお客様は団体への店長の対応を常に見ていた。もちろん学生でなくても「騒がせない」のは誰にも条件は同じ。自分たちの居心地を店長は懸命に守ろうとしていると感じてくれる。

やがて学生が町から消える夏枯れの8月を迎えることになる。
そして、その店長は前年8月売上の200%をクリアした。
その後、店はずっと優秀店として売上を伸ばし続けた。
当初この営業方針の転換で結果が出なかったら、店長は責任をとって辞めるつもりだったと後になって聞いた。

学生の団体の中でも、こちらが押し付けたマナーを守ってくれるサークルがいくつもあった。そのサークルは代々の会長やメンバーがそれを引き継ぎ、上客となってずっと利用してくれる。彼らは卒業して社会人となっても、偶に顔を出してくれる。
「よく来てくれたねえ。」
そんな時の店長は、誰よりもこぼれそうな笑顔で応対している。

その店は一度改装もした。
その店長を支えた一人が後任の店長にもなった。
「いくらチェーン店でも、ここは自分の店だと思ってやっている」
二人とも同じことを言う。
二人とも私の尊敬する店長だ。