都議選に見る 選挙こそ政治

選挙速報を観ながらというわけには行かなかったが、都議選のあった日には下北沢で古い仲間と酒を酌み交わしていた。

選挙前のニュースで誰に(どこに)投票するか決めてない人が多いと、報じていた。しかし、そんなのは私にとっては当たり前のこと。

これまで40年間、誰一人として、この人に当選して欲しいと思って選挙した人は先ずいなかった。不支持政党はあっても特別な支持政党はなく、当選してほしくない人はいても、どうしても当選して欲しい人もいなかった。そうなれば、より迷惑な人を落選させるための選挙でしかなかったのである。

多くの若者や真面目な大人たちは、この人が良いと思う候補者がいないから選挙に行かない、と棄権を選択している人も存外いるようだ。しかし、本人が立候補でもしない限り、そんな都合の良い候補者いない。

むしろ「良い」ではなく、「嫌だ」と思う候補者はいるはず。もしも棄権した人が、この嫌だと思った候補者以外に投票していたら、嫌だと思った候補者は落選するかもしれない。そう、嫌な人を当選させないのも選挙。たとえ棄権しようが、落選者に投票していようが、結果は自分の責任で選んだ結果として受け入れなければならないのが選挙。

私は、築地・豊洲問題には自論を持っていて、小池さんの両方活かすという発言に、大きな違和感を持っている。豊洲に移転した場合、毎年100億を越える赤字が出るという試算が正しいとすれば、私には選択の余地はない。

流通の今後を見た時に、仲卸の存在そのものが問われる時代に、市場の役割をどこに置くのかという答えの方が先で、より重要なはずなのだが…

行政は経営。

そう思いながら、今回の選挙を眺める。
予想通りの結果とは言え、果たして都政はどう動いていくのだろう。
小池知事の手腕は、これまでよりも鋭く発揮されるだろうか?
酒の肴にするにはチト重いものを観ながら傾ける盃は、これもやや苦い。
選挙速報は良い肴になっても、政治こそが酒の肴に相応しいと意気込むほどに若くない私は、すでに政治に肩入れした肴を楽しむには荷が重い。酒を傍らに置きながら、荷の重い肴は眺めて旨さを想像するしかないのか?
これはこれで幾分寂しいものである。