歩きスマホ その本質を大人?の目で見る

不思議なものだ。
理由はわからないし、何をしているのかも知らないが、歩きながらスマホに見入っている人が多いのは事実だ。
よほど時間がなく忙しい人たちだということに、しておこう。
だからなのだろう、周りを気にするゆとりがない。
もちろん私同様、年配の人たちに、そんな人は殆どいない。
さすがにいくら忙しくとも分別がある、というのではない。
目元、足元が心もとないのだからしたくてもできない。

駅の雑踏ではその忙しい人たちが、右から左から、そして前から押し寄せてくる。
まるでゲームようだ。
ぶつかってスマホを落としたり、ゲガをさけては一大事だと思い、こちらから左右へ避け、交わしながら歩く。
我ながら意外と俊敏で器用なものだと感心する。
しかし、不思議なものだ。
なぜ、こちらが気を使わなければならないのだろうと、一瞬思っては、また身を交わしている。
ここで考えた。
日本の将来を支え、我々老人?のために嫌々ながらも年金・税金を出してくれる数少ない若者に、失礼などあってはイカンと、これでも配慮している。
若者は忙しいのだ。
学生ならば、学校へも行かねばならん。
部活もあるだろう。
塾の時間も工面せねばならん。
当然飯も食う。
社会人とて同様だ。
僅かだが残業のチャンスを逃すと生活に響く。
合コンの時間も生きて行く上で欠かせない。
嫌だが、上司の酒に付き合う度量も必要だ。
社会人とて、習い事や体の鍛錬もしなければ生き残れない。
若者には時間がない。
将来を確保するために、今現在の時間がない。
個人の趣味や、友人とのコミュニケーションは歩いている時しかできないのだ。
自分のために使える時間は、歩いている時だけなのだ。
なんと気の毒ではないか。
どの時代も大人や老人は、若者を理解できない。
若者は、さらに大人や老人を理解できない。
だが、同じ時空間に生きている。

過去の賢明な大人たちが、自分に都合よく作り上げた日本。
若者は選挙にも行かず、意志も示さず、黙って従ってくれているのだ。
スマホぐらいは、大人の余裕で大目に見よう?ではないか。

不思議なものだ。