彦根城と井伊の殿様

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 彦根城の佇まい

彦根駅の改札を出ると15:40。
西へ出て普通なら徒歩で7~8分のところに彦根城はあるはずです。

ところがこの日は猛暑の夕刻近く。ゆっくりと進むことにしました。風もあまり吹かず、傾いた陽射しが遠慮なく照っています。

考えてみれば当たり前のことですが、城は小高い山の上。
荷物を背負って真夏の照り返しの中を、のんびりと登るほどには甘くはなかったのでした。

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彦根城は今年2017年が築城410周年だそう。
徳川の天下取りに武勲のあった井伊直政が関ケ原合戦の後、家康から三成に替わって与えられた北東近江の所領を治めるために、佐和山城に代わる城を造ろうと計画したのが彦根城。普請しその彦根城を完成させたのは長男の井伊直継。
お城の案内の方に聞くと、何度かの改築はあったけれど、柱や梁、姿は410年前のままここに建っているそうです。

だからでしょう、これまで私が訪ねたお城の中では、階段も梯子のように急だし、空調もないし、展示も殆どないし、当時を知るには貴重で、佇まいがなんとも良いお城ですね。

本年のNHKの大河ドラマの影響がどれだけあるのかわからないままに訪ねました。私自身はドラマの影響とは関係なく、この琵琶湖畔に来たかった。

最近はどこに行っても同じなのか、やはり中国語と韓国語は周りでたくさん聞きました。

 井伊家

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井伊の殿様は城のできた当時からずっと、幕末に至るまで代々この彦根の城主として、徳川の世に貢献してきた人。いや、実はもっと前から、徳川家にとってはなくてはならぬ井伊家だったでしょう。

甲斐(山梨)の武田家が終焉を迎えて、武田の遺臣を家康が井伊家の武将として預けたことから、「武田の赤備え」が「井伊の赤備え」へと変わっていく。今も「ひこにゃん」の頭には赤い甲が乗っています。

江戸と京を往来するための要衝にこの町はあり、井伊家にそれだけの大きな役目を家康は期待してのことだったのでしょうね。

歴史に興味のある人でなければ、幕末に桜田門の名前と一緒に「井伊」の名前が出てくる以外、「井伊」の名に触れることはないでしょうが、歴史の中で大きな位置にいた殿様であったことは事実です。

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410年を迎える彦根城を訪ね、歴史のままに残るお城と、裏に下って崖下から見上げる石垣を思うと、安穏と過ごした時間とは別に、井伊家の背負ってきた役目が「忠義」の言葉とともに染み込んでいるように感じます。

さあ、今夜の酒を探すことにしましょう。