日常を変えるということ

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日常の居心地

昨年の11月にの上旬、縁があって大分県竹田市を訪ねてから後に、ゴールデンかぼすを自宅に送ってもらいました。

かぼすが日常にある地元の方たちのかぼすの利用形態を聞くと、東京で暮らす私たちの触れ合い方とはもちろん違いすぎます。何しろ東京ではかぼすを知らない人さえが珍しくないのですから。

大分で数日間積極的に接して、さらに「竹田市ゴルデンかぼす応援隊」という役目をいただきながら、やはり意識しなければかぼすが日常から消えてしまうことに気づきました。

大分_ (3)やはり日々の生活の中で培われてきた習慣になるということは大変なことです。
私などは、単純な湯豆腐を作った時に、冷蔵庫からおもむろにポン酢を出そうとしていました。そして気づくのです。
「あっ、かぼすがあった!」

そして、ゴールデンかぼすを半分にカットして搾ることになります。

経験し、刷り込まれてきた日常は、なかなかに「新しさ」を生みません。
せっかくしばらくの間まみれてきたかぼす文化であったとしても、日常に存在感を示すには、「意識」なくしては簡単ではありません。

日常からの脱却は

人は変わることを嫌がります。
どんな悩みがあっても、自分が変わることは選択肢に持ちません。
どうしても相手に変わって欲しいと願うものです。

我がままです。

かく言う私も同様なのですが…
しかし、それに気づいていることは稀です。

世の中で変えられないのは「他人と過去」だということは、何かの機会でもない限り、意識に染み込んでくることはありません。

たとえ教えてもらった経験があったとしても、日常の変化を恐れ、嫌がるがあまり、「自分を変えれば周りも変わる」ことを、信じようとしないばかりか、すっかり忘れているのが現状です。

ゴールデンかぼすを近くに置いていながら、日常に活かすことができない。
それほど「日常」というものは怖いものだと、今更のように思います。

そろそろ早生の緑のかぼすが出回る頃です。

物事を日常にて、習慣にする。それを繰り返し定番化した日常は、意識しても変えられなくなる。幾つになろうと、自分を変えていく機会はまだはあるかもしれませんね。

そう信じて、「日常」を見直していきたいものです。